春一番2016、鉄斎、ビドロとストナー
今年も「春一番コンサート」のポスターを、森英二郎さんとつくった。二人で相談して今年は、雲と風をテーマにした。森さんは苦心したようで、二点の木版画を彫った。最初はリアルに、それで気に入らずデフォルメした雲になった。気持ちのよい絵である。
その「春一番コンサート」に、やっと出かけることができた。1995年の再開以来はじめてだ。毎年行こうと思いつつ、新幹線の切符がとれずにあきらめていた。今年は大阪に日帰りの用事が出来たので、コンサートをのぞくことにした。服部緑地野外音楽堂についたら、ちょうど二番目に、中川イサトさんがバンド編成(bass: 河井徹三/electric guitar: 古橋一晃/drums: 河野俊二)で演奏。快晴の空のもと、まるでJesse Colin Youngみたいな雰囲気で楽しい。「Weight」「Johnny Be Good」「もう引き返せない」「その気になれば」「生活の柄」。観客はオールドファンでいっぱい。
4月3日に前期の展示を見た、兵庫県立美術館の「鉄斎展」の後期展示を観る。
石川九楊さんが、『近代書史』(名古屋大学出版会/2009年刊/函入り・上製/頁サイズ:297mm×200mm)の第三章で鉄斎のことを書いている。タイトルは「東アジアの雑炊 富岡鉄斎」。
冒頭、こう始まる。
〈富岡鉄斎(1836-1926)の書は、とても評価のむずかしい書である。幕末維新期の政治家副島種臣が書き残したような巨大な書かと問われると、構成の上での破綻も多く、とてもそうは言い切れない。とはいえ、幕末維新期の山岡鉄舟のような馬力ばかりが露出するだけの書でもない複雑な表現を見せている。〉
〈富岡鉄斎の画も書も、ともに評判の高いものである。しかし、よくよく見てみると、一方で途方もない水準の、いわば雅なる表現を見せるかと思えば、他方では、とんでもなく初歩的な、俗な姿もまた同時に見せている。
「雅俗併呑」ーーこの言葉こそは、富岡鉄斎の書を雄弁に物語るように思われる。〉
〈玄人(プロ)というのは、単に永年ひとつの仕事に従事しているだけではなく、その仕事の歴史を体系化し、それに照らして、自らの仕事を絶えず相対化しつづける人である。この自らの仕事の相対化の果てに、自らの仕事を絶対化する者のみが玄人(プロ)である。
この意味において、玄人(プロ)の思いもつかない表現が素人に出現するなどという言説は虚妄である。どんなに奇抜な表現が素人から登場しようとも、それはすべて織り込み済みであるのが玄人(プロ)の表現である。半端な玄人(プロ)が跋扈するのは、もとより否定されるべきだが、素人の跋扈から何物かが生まれるとも、またとうてい信じがたい。
富岡は、夏目の言う「芸術的傾向を帯びた普通の人間」であった。その素人が巨大化したのが、富岡の書であり画である。富岡鉄斎はいわば、そこに蛹が蝶になるような変態を欠いた、巨大な蛹、素人の幼態成熟(ネオテニー)であったと私には思われる。〉
〈それでもあえて一つを挙げるなら、富岡鉄斎の本領の発揮された書は、私には「丹鳳來儀宇宙春……」で始まる「勾白字七言絶句」ではないかと思われる。鳥居、鳳凰、草木、花、動物、人物、建築、物品など、森羅万象が一体化したこの一種の雑体書こそは、画家・富岡鉄斎の面目活躍如たるものがあり、世界と民衆への共感からなる実にのびのびと楽しい書であって、一種の曼荼羅である。第三行の「好」の一部が、第四行の「恩」の一部に重なる稚気などは、知らずに笑みがこぼれるほどである。〉
「鉄斎展」の帰りに阪神岩屋駅近くの、「SORA」でスジカレーを食べる。前回、看板の写真を載せたお店だ。あのブログを見て、友人の村上知彦君が連絡をくれた。あの店は彼のご贔屓であった。
〈SORAのスジカレー、絶品ですよ。兵庫県美やBBプラザ美術館に行ったとき、よく寄ります。ここのカレーは、ルーのとろけ具合がよくてぼくは大好物です。ビールにも合います(笑)。キーマもチキンもそれぞれいいけど、やっぱりスジカレーが最高。このつぎ前を通られましたら、ぜひお試しを!〉
というわけで、私もこの店に行ったのである。カレーとビール。うまかった。このブログを読んでくれているみなさんが、兵庫県立美術館に行くことがあれば、ぜひお寄りください。お昼休みをしていないのもよい。
先月、時間がなくて本の絵を描いたビドロとデザインをしたストナーについて詳しく書けなかった。こういうことではいけないが、「伊野孝行ブログ先輩」のように更新することを優先してしまったのだ。
フランティセック・ビドロ(Frantisek Bidlo)は1895年9月3日、プラハ生まれ。帽子職人だったが、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)軍でイタリア前線で戦った。戦後、社会主義者となり左翼系の新聞にカートゥーンを描く。ドイツの週刊風刺雑誌Simplicissimusに寄稿し、雑誌のイラストレーターとなる。ヒットラーとナチ党に反対し1931年にゲッペルスをからかうシリーズの絵を描いて怒らせる。ヒットラーが政権を握った1933年にはプラハに戻る。1938年のヒットラーのチェコスロバキア侵攻命令にともない、身を隠したが逮捕され投獄される。1945年5月9日に腸チフスで亡くなる。(歴史ウェブサイト「Spartacus Educational」から要約)
ラディスラフ・ストナー(Ladislav Sutnar)は1897年11月9日、西ボヘミア(現在のチェコ共和国)のプルゼニ生れ。1976年11月13日没。1939年ニューヨーク万博のチェコスロバキア・パヴィリオンのデザイナーとしてアメリカ滞在中に本国がナチスに占領され、そのままニューヨークにとどまる。1923年からプラハの国立グラフィックデザイン学校の教授に、1932年学長に就任。1929年、チェコ最大の出版共同組合(Druzstevni Prace(dp)1922年設立)のディレクター。dpの装丁を手がける。前回のビドロの本の扉にもこのロゴがある。
扉頁の右上にdpのロゴ
後ろにある目次(矢印がいかにもモダニズム)と奥付
オランダのtypothequeのブログで、スティーブン・ヘラー(Steven Heller)がストナーについて書いている。Ladislav Sutnar, Web Design before the Internet
〈ラディスラフ・ストナーは、今では最も当たり前なことのひとつ、しかし革命的なグラフィックの手段をデザインした。それは、アメリカの市外局番をパーレン(丸括弧)でくくることである。1960年代の初期、最初に三桁の数字が追加されたとき、技術の進歩で社会が、招かれない、望まない、時には不必要な付加物で溢れることを、これは予言していた。しかし、すごい速度で現代生活を襲う情報の洪水を、組織化しコントロールすることの必要性、その大切さと実際の機能を、ストナーはよくわかっていた。〉
〈チェコモダニズムの代表的存在であり、グラフィック、プロダクト、展覧会のデザインで、持てる力の頂点にあるとき、いわゆるインフォーメイションデザインのパイオニアとして、合衆国へ彼の仕事を進めることになり、はからずも情報デザイン構築の創始者となる。今日、ストナーの残した仕事は、ウェブのデザインとその設計の模範として貢献している。〉
〈「訓練が欠如している今日の都市の工業的環境は、ばらばらで、混乱と混沌にいろどられたヴィジュアルの様相を生んでいる」と、1961年オハイオ州シンシナティの現代美術アートセンターで開催された『Ladislav Sutnar:Visual Design in Action』展のキュレーターのアラン・ショーナー(Allon Schoener)は書く。「結果として、今日の平均的なひとびとは、彼らが日々目にする対象の、さまざまなサインを読んだり、工業製品の性能を理解したり、広告をのみ込み咀嚼し、また、新聞や書籍やカタログにある情報を読みといたりする…ことなどに習熟するのに苦労しなければならない。正確で明瞭なコミュニケーションが、ただちに必要である。これこそがラジスラフ・ストナーの、誰よりもすぐれている分野である。」〉
ストナーのことを調べていたら、『世界グラフィック・デザイナー名鑑(原題:graphic deisgn visionaries by caroline roberts)』を見つけた。キャロライン・ロバーツ著/河村めぐみ訳/2015年刊/A5判/312頁/スペースシャワーブックス
情けないことに、私はこの本で紹介されている76の世界の重要なデザイナーやグループを、すべて知っているわけではない。ストナーの頁を抜粋する。この本の序文で、著者のキャロライン・ロバーツがグラフィックデザインの現状をうまく書いている。これを読んだだけでも得をした気分だ。
〈グラフィックデザインは至る所で目にし、誰の日常生活にもつきものである。その一方で、グラフィックデザインに対する基礎知識がない人がほとんどなのだ。持ちまわりで風景を台無しにする自意識過剰な建築家や、利益率の高い香水やサングラスのブランドを立ちあげるために、奇抜な服をデザインして話題作りに必死なファッションデザイナーと違って、グラフィックデザイナーの仕事はクライアントの希望が第一である。大きな要求から、ちょっとした希望まで、すべてに応えるのがグラフィックデザイナーなのだ。
建築やファッションの評価は創作者に直結するのに対し、グラフィックデザイナーの存在はそれほど大きく取りあげられるものではない。長年にわたり、“グラフィックデザイン界のスーパースター”と呼ばれる人物はごくわずかだが、今や絶滅状態と言っても過言ではないだろう。ほとんどの人がグラフィックデザイナーの名前を1人も知らない理由はおそらく、全国紙に彼らの名前が掲載されるのが亡くなったときくらいだからかもしれない。〉
このデザイナーは、おそらく、日本語が縦と横に組める言語だということをまったく理解していない。横に読ませたいのなら、字間と行間の計算がまちがっている。私には右から「は 醸冠 吟桂 大月」としか読めない。
十貫坂教会の看板。「あなたは誰にへつらっている?」強烈な問いかけ。現在の日本のマスコミのことだろうか。テレビはもちろん、新聞も誰かさんにへつらってばかりじゃないか。もっとはっきりと本当のことを主張できないのか。
こんなところに小さな植物。水道の量水器のふたの割れ目から健気に。パイプを支えるコンクリートの丸い土台の小さな穴にも可愛い奴が(ブロック屋さんの店先で)。
Guy Clarkが亡くなった。5月17日、ナッシュビルの自宅で、74歳。この10年リンパ腫で闘病していた。2013年のアルバム『My Favorite Picture of You』は、2014年のグラミーのbest folk albumに選ばれている。彼のつくった曲には、好きなのがいっぱいある。
今日の一曲は、Desperados Waiting For A Train/Guy Clark