オリンピック、絵本、本人遺産、愛国と信仰

〈オリンピック〉
このブログは7月は1回だけ、ついに8月はさぼってしまった。そして、9月になってしまった。7月の二回の選挙の投票率のこと(宮崎県西米良村は参院選で投票率91.13%だ)を書こうと思っているうちに、オリンピックが始まった。東京オリンピックには大反対だけど、見てしまう。開会式の演出は、『シティ・オブ・ゴッド』のフェルナンド・メイレレス。シンプルでよかった。聖火がぶら下がるアイデアがおもしろい。その後ろの太陽のような動く彫刻も怪しくてよい。誰だろう。隈研吾はどうするんだろう。音楽もよかった。テレビの解説は、なぜブラジル音楽の詳しいひとをゲストにしないんだろう。盛り上がるのに。閉会式でブラジルのこどもたちがアカペラコーラスで唄った「君が代」に聴きほれる。東京のプレゼンテーションは、渋谷の交差点とマリオのイメージ。今の日本はゲームなのか。それにしても、新聞やテレビの毎日のメダル騒ぎは、はしゃぎ過ぎ。

 

東京新聞連載「ドナルド・キーンの東京下町日記」9月4日(日)
キーンさんが怒っている。

 
〈ようやく終わった。リオ五輪ではない。台風のような五輪報道である。連日、ほとんどの新聞は一面から社会面まで、日本人の活躍で埋め尽くされた。どれもこれも同じような写真がならんだ。どのテレビ局も似たような映像で伝えるのは、日本人の活躍だった。まるで全体主義国家にいるような気分になった。〉

 

〈メディアには、読者や視聴者が欲する情報を提供する役目がある。日本人が同胞の活躍を気にすることは理解するし、それに応えることも必要だろう。だが、程度問題があるし、ニュース価値の判断やバランス感覚も大切だ。批判精神も不可欠である。それなのに「日本にメダル」と美談ばかりでいいのだろうか。〉

 

〈五輪報道も日本人に偏りすぎ、金メダルを取った外国人については、ほとんど知ることができなかった。〉

 

〈次の五輪は東京で開かれる。私が恐れるのは、それに向けた五輪報道で、いまだに故郷に戻れず、生活に困窮する東日本大震災や福島原発事故の多くの被災者が忘れられてしまうことだ。繰り返すが、選手に罪はない。五輪は素晴らしい舞台だし、国際親善の場だと思う。だが、そんな美名に隠されてしまうニュースがあることが問題である。〉

 

〈今月のカレンダー〉
パリのヴァンブの蚤の市で買った犬。木製。子供が遊ぶミニチュア玩具みたい。耳が欠けているみたい。顔を見ると犬種はブルドッグかな(実物はこんな大きさです)。

 

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〈今週のダイアリー〉
ずっと使っている私のREDSTONE DIARYの2016年のテーマはtherapeutic(治療の)。今週はルイーズ・ブルジョアの作品。ぶら下がっている棍棒みたいな男根のようなイメージを彼女は繰り返し使っていたような気がする。抑圧されて傷ついた魂の治療という意味かな。タイトルは「ピンクの日々とブルーの日々」。

 

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〈新聞広告〉
「エミール・ガレ」のふたつの新聞広告。最初は〈ール〉と〈レ〉が、よく理由がわからないが、活字体を鉛筆でなぞっている。それも奇態の今風の書体の筑紫Aオールド明朝。ポスターやチケットもこうなっている。ところが、会期が終わる頃の広告では、フォントそのものにもどしている。しかも、〈エミール〉だけが、おとなしい筑紫明朝になっている。なんとも不思議。以前にも、活字体を鉛筆でなぞった広告があったのを思い出した。今年の春の河合塾のポスター。活字の字形をわざわざ鉛筆で描くことのどこが面白いんだろうか。なにかデザイン的な効果があるのだろうか。

 

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〈中吊り広告〉
この二つをならべるのは意図的なんだろうか。左はアフリカのひとが集合、右は日本の小学生が集まっている。写っている対象はちがうが構図は同じである。よく見ないと何のことやらわからない。善意の行為の宣伝は人が集まる絵柄がよいのか。あまりのステレオタイプなイメージ。AC JAPANの公共広告。「認知症サポーター」と「難民を助ける会」。もっとわかりやすいアイデアやカッコいい写真ないのかな。デザイナーにやる気がないのか、依頼に問題があったのか、材料不足もしくは時間がなかったのか。それにしても工夫がない。タレントの顔に頼る広告の逆説か。イメージの貧困ということでは同じだけどね。

 

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〈暑中見舞い〉
今年はこんな暑中見舞いを作った。絵は去年と同じく伊野孝行君に描いてもらった。2015年は河童、今年は蛸。アイデアは伊野君。pdfの画像をメールで知り合いに送っている。

 

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『足はなんぼん? 新版 いたずらはかせのかがくの本』板倉聖宣著/中村隆絵/
仮説社刊/2016年/上製/本文サイズ=左右210ミリ×天地235ミリ(A4変型)

 

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今年のHBファイルコンペの私の大賞の中村隆君と絵本をつくった。中村君は昨年は特別賞。とにかく絵を描くのが大好きなひと。いつも手を動かして絵を描いている。そんな彼に様々な描き方で動物や昆虫を描いてもらった。小学生低学年向けの教育絵本だが、絵を見るだけでも抜群に面白い。なにより中村君が絵を描くことを楽しんでいるのがわかる。これは、仮説社の科学絵本シリーズで、これまで、さかたしげあき君、最上さちこさん、丹下京子さん二お願いして三冊つくっている。70年代につくられた絵本がもとで、同じテキストに絵とデザインを変えた改訂新版である。このあと、山田博之君に頼んだ『せぼねのある動物たち』が出る。

 

『おとうさんのうまれたうみべのまちへ』「こどものとも」7月号/2016年/小嶋雄二・文/森英二郎・画/並製/左右262ミリ×天地188ミリ

 

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森英二郎さんから、絵本をいただいた。この絵本のことは、本人からずいぶん前から聞いていた。木版画で版が多く苦労の末にやっとできあがった。すばらしい。毎年6月に開かれる、佐賀県呼子町の「大綱引き」のお祭りの話である。海辺の明るい光のと澄んだ空気の風景が、木版画で見事に描かれている。とにかく人物がたくさん出てくる。これを木版画で彫っていくのは大変な作業だったろう。

 

『本人遺産』南伸坊+南文子/文藝春秋/2016年/A5版/並製/天地210ミリ×左右148ミリ

 

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南伸坊さんから本人シリーズの最新刊を送っていただいた。『本人の人々』『歴史上の本人』『本人伝説』につづく。巻末に南伸坊さんと東海林さだおさんの対談がある。

 

〈南 僕は「本人術」と呼んでいるんです。「オール読み物」では四年やっています。この本が出るとき、編集者に「キリもいいしもう、やめませんか」って言ったんですが、もうちょっとやれと(笑)。〉
この対談は、クレジットがみつからないが前回の『本人伝説』が単行本になったときのものみたい。「四年」って言っているから。南さんがこの『本人遺産』のまえがきで〈本書を刊行するにあたって、八年の長きにわたってこのバカバカしい企画の連載を続けてくださった「オール讀物」に大感謝。〉と書いている。

 

〈東海林 恥ずかしいっていうのはないんですか。/南 もうないですね。似てるかどうかももはや分からない。最近はやる前から誰でもできそうな気がします。/東海林 自信が出てきた。/南 自信というか、どっかは似るだろうと。自分ではあんまりうまくいかなかったなっていうのを、これ似てる!って言ってくれる人がいるかと思えば、その逆もあって……。だから、その人に持ってるイメージっていうのがそれぞれ違うんですね。とりあえず笑ってくれるんで安心するんだけど、自分ではもう笑えない。何が面白いのかわかんなくなっちゃって……。〉

 

そうなのか。でも、見ているほうは南さんが面白がって自分でも笑っているところを感じるから、似てる似ていないをこえて楽しめるような気がする。いくらなんでもこれでいいのか、と笑ってしまう。とにかく伸坊さんの元の顔面が普通のひとより特徴があるので、どれも無理矢理なのである。そこの涙ぐましいような工夫が嬉しくなるのだ。ご本人が対談で語っておられるように、似ている似ていないはひとによって意見がわかれるのが面白い。

 

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』中島岳志・島薗進/集英社新書/2016年

 

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久しぶりのメールで友人が薦めてくれた本。〈 中島岳志・島薗進「愛国と信仰」(集英社新書)、明治維新から現在までの国家神道、仏教と政治の変遷が分かってとても面白いです。世の中まだまだ知らない事ばかりです。〉本当にそうだった。明治以来の日本の全体主義と宗教の密接な関係が語られている。しかも、それは戦後から現在にも影響をおよぼしている。

 

〈中島 革命は英語でレボリューション(revolution)ですが、明治維新はリストレーション(restoration)で「回復」「復興」という意味です。
もし明治維新がレボリューションを意味する明治革命であったなら、旧体制から新体制への根本的な変化を意味することになり、旧体制の一部をなしていた天皇の存在も否定されてしまいます。しかし、実際にはレボリューションではなく、リストレーションだった。つまり、本来あるべき政治体制を回復」「復興」させ、天皇の存在を前提とする社会への復帰をめざしたのが、明治維新だったのです。
当時の日本の志士たちは「革命」という概念を嫌いました。自分たちがやろうとしているのは王政の復興である、本来の日本の「国体」へと戻すことによって日本の歴史を正す運動だというのが、彼らの主張だったわけです。
「政体」は変えても「国体」は変えていない。だから「革命」ではなく「維新」だというのが彼らの言い分でした。
明治維新では君主制を否定するのではなく、本来への君主制へと回帰することによって封建的身分社会を打ち破り、「四民平等」の確立を進めようとした。つまり、君主の扱いが明治維新とフランス革命では決定的に異なるのです。このように近代日本においては「復古」が「革新」であるようなトリッキーな構造が生み出されたのです。〉

 

〈島薗 明治維新から戦前にかけてのナショナリズムの問題を考えるときに、軽視してならないのは、言い古された観はあるにせよ、「上からのナショナリズム」ではないでしょうか。
ひとたび明治政府が出来上がってしまうと、天皇崇敬や皇室祭祀、神社の優遇など、天皇を求心力として国家を強くしていくような、「上からのナショナリズム」が前面に出てきた。
もちろん、明治維新後ただちにその体制が完成したわけではありません。紆余曲折を経ながら、時間的にも数十年かけて、戦前のナショナリズムを支えた国家神道の体制が積み上げられていった。それが完成した頃に、日本はファシズム期に突入していったわけです。〉

 

〈島薗 浄土真宗をはじめとする伝統仏教は、戦前、本来、仏教は国家との間に緊張感をもって対峙すべきだという自覚を不十分にしか持ち得なかったという気がします。
たとえば浄土真宗には、真俗二諦論(しんぞくにたいろん)というものがある。これは、仏教の真理と世俗の真理がともに真理として両立することを説く教説で、浄土真宗の信仰と国家神道を、ひいては全体主義的な日本主義を両立させる根拠となりました。〉

 

〈中島 なぜ親鸞主義と国体論は結びつきやすいのかと言うと、その理由のひとつは、親鸞の思想の構造が、本居宣長の国学の構造と非常に似ているからではないでしょうか。
本居宣長は浄土宗の家に生まれた人物ですが、親鸞に対して非常に強い敬意を持っています。(略)本居宣長の使っている言葉で言えば、すべてのことは、神の御所為(みしわざ)として起こっている。それに対して、人間の賢しらというものがある。この賢しらこそが漢意であり、大和心はすべての神の御所為であり、いわばありのまま神に随順することをよしとします。(略)自力によって何とかしようとする人間は漢意の人間である。そういうものを超えた力に随順すること、それが自分たちの大和心であり、それを親鸞も「他力」といっているのではないかという発想が、この中から生まれてきたわけです。
そして、それが右翼イデオローグたちと親鸞思想を結びつける構造へと変化していくことになりました。すべては大和心に随順せよ。天皇の大御心に随順せよ。そのことを親鸞は絶対他力と呼んだのだ、天皇の大御心こそ弥陀の本願なのだという理屈が出てくるわけです。ここは非常に危ういロジックです。〉

 

〈中島 まず、昭和の全体主義に対する影響力という点で見た場合、伝統仏教の中で戦前に最も大きな力を持ったのは日蓮主義だと一般に言われています。天皇崇敬を掲げる超国家主義的な変革運動の指導者の多くが、日蓮主義の影響を受けているからです。
日本を中心に世界統一をめざすという、あの「八紘一宇」という言葉も日蓮主義の国柱会から出てきたものです。〉

 

〈島薗 戦前で大祭の数は13にものぼりますが、わずかな例外をのぞいて、ほぼ全部、新たに明治期に定められたものなのです。実は古代から宮中で行われていたものは、新嘗祭(にいなめさい)だけなのですね。もうひとつの例外は神嘗祭(かんなめさい)で、これは伝統的に伊勢神宮で行われていたものを宮中でも執り行うことになった。/中島 復古と言いつつ、皇室祭祀のほとんどは、実は新たな権威確立のために作られたものなのですね。〉

 

〈島薗 もともと明治維新以前には、日本各地にさまざまな神社があり、それぞれ多彩な信仰を培ってきました。つまり、日本中の神社を束ねるような統一的な宗教組織は、幕末までは存在しなかった。
それが明治になると、皇室祭祀と連携しながら、全国の神社を一元的に統合し、伊勢神宮を頂点にした組織を作り上げていきます。その結果、神社神道という呼び得るような一大祭祀組織が形成され、これが国家神道の重要な構成要素となっていくわけです。〉

 

〈中島 私は、現在の靖国神社に首相は公式参拝するべきではないと思っています。一番の問題は遊就館の展示です。かつての遊就館の展示は死者の遺品を静かに眺めるといったものでした。(略)しかし、現在は基本的には大東亜戦争は正しかったという歴史観を表明する博物館になっていて、そのストーリーをかっちりと作っているわけです。そういった場所に、ある政治的な立場にある人が行くことは、どう考えても、この歴史観を追認というふうに対外的には見えます。
つまり、靖国神社自身が何か政治的な立場を自己主張し始めたことに非常に大きな問題があって、そういうところには、首相や天皇陛下はなかなか行けないと思うのです。〉

 

〈島薗 神社本庁が1980年に定めた神社本庁憲章というのを見れば、堂々と明治維新以降の国家神道体制に戻りたいという路線を出していることが分かります。そして、自民党は政教分離の憲法に従うために神社本庁の政策をそのまますべて通すことはありませんが、少なくともそこに対立関係がないのは、神道政治連盟国会議員懇談会という団体の会長を安倍首相が務めていることからもわかります。
たとえば、靖国神社の存在意義を国家護持に戻したいと主張し、自民党は「靖国神社国家護持法案」を提出しました。結局、1974年に廃案になりましたけれども、国体論的なものは、戦後も常に顔を出そうとしている。そういう動きの延長に、今、注目を浴びつつある日本会議という存在もある、と考えなくてはならないのです。〉

 

〈タイポグラフィセミナー〉
明日の土曜日、9月10日。タイポグラフィセミナーの第五シリーズ。今回のテーマは「小宮山博史との対話」。ゲストと小宮山さんの対話。一回目は、若手タイプデザイナーが三人、大日本スクリーンの築地活版製作所の書体を覆刻した「日本の活字書体名作精選」の原字を見ながら質問します。当日でも受付可能です。

 

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今日の一曲はこれ。
You Don’t Know/Bob Andy