トランプ、奥の細道3、良寛、一茶、カレンダー、久保田万太郎と芥川龍之介展

〈トランプ〉

「アホ!」「何やて!」「アホ!」「何がアホやねん!」「お前はアホじゃ!」「どっちがアホやねん、アホ言う奴がアホじゃ」子供のときのののしり合いの最後はこれになる。さんざんトランプを馬鹿にして、彼をアホやと言っていたこちらも相当なアホだと思う。他所さんの国の他人事ではない暗い気分にさせられる。アホな世界が充満してくる。感情的になりすぎか。こんな単純なことではない。世界が分断されていることが、さらにあらわになった日。

 

伊野孝行君にトランプを描いてもらった。三点も描いてくれた。

 

トランプ1

 

トランプ2

 

トランプ3

 

ポール・クルーグマンが、トランプが優勢がわかった時、勝利した時にニューヨークタイムズのopinion欄に二回、短い寄稿をしている。
まず「Our Unknown Country」(われらが知らざる国、でいいか)というタイトル。

 

〈何を知らされたかと言えば、私のようなものや、たとえばニューヨークタイムズの読者の多くは、われわれが住んでいるこの国を本当に分かっていなかった。〉〈われわれがここからどうやって前進するのかわからない。アメリカは失敗した国であり社会なのか? 本当にそうに見える。われわれは立ち直り、前進する道を探さなければならないだろう、恐ろしいものが目の前に出現した夜だが、この大きな絶望感に身をまかせ、ひたっている場合ではないと思う。〉
次は「The Economic Fallout」(経済的影響、でいいか)
〈今、すべての反動の母がくる。経済政策に無知で、それを実現するいかなる努力をも敵視する政権がもたらされる。(略)われわれは、おそらく終わりの見えない世界的な景気後退をずっと見続けている。なにかの幸運に出会うことがあるかもしれない。しかし、経済においては、他のことと同様に、恐ろしいことが今まさに起きているのである。〉

 

エマニュエル・トッドは、アメリカの大統領選挙の前にテレビのインタビューで「白人層の革命」と呼び、トランプの勝利がありえないことではないと言っていた。彼は白人の死亡率の上昇を指摘している。開票後の朝日新聞の質問に「当然の結果」「生活水準が落ち、余命が短くなる。自由貿易による競争激化で不平等が募っているからだ。そう思う人が増えている白人層は有権者の4分の3。で、その人たちが自由貿易と移民を問題にした候補に票を投じた」「奇妙なのは、みんなが驚いていること」「問題は、なぜ指導者層やメディア、学者には、そんな社会の現実が見えないのかという点だ」と答えている。

 

〈奥の細道、その3〉
前回、立石寺で見つけた芭蕉と曽良のバッジを紹介し忘れた。「奥の細道 山寺 立石寺」「閑けさや岩にしみ入蝉の声 芭蕉」の文字が彫られている。

 

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9月26日、翌日は最上川下りである。

 

〈最上川のらんと大石田と云所に日和を待。〉〈最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果ては酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は、青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨んで立。水みなぎつて、船あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川〉

 

芭蕉と曾良が乗り込んだ近くに兜太通りがあった。金子兜太さんの通り。

 

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芭蕉と曽良が乗船した本合海。
〈平泉へ落ちる源義経一行もこの川を船で遡ったことが『義経記』に見えている。平泉で義経の運命に涙した芭蕉だし、第一、最上川沿いには道もなかったのだから、船で下るのは当然であったろう。〉
〈今の船下りは、交通手段ではなく完全な観光である。便数も多く、冬でも雪見船として運行している。(略)一時間の船旅は、両岸の自然を眺め、船頭の最上川舟歌を聞きながらの、のんびりしたもの。〉

 

私たちは、原典にある名勝、仙人堂と白糸の滝を船頭さんの案内で船から見ることができた。この最上川下りは、あの「おしん」の撮影地に選ばれて飛躍的に年間乗客数が増えたらしい。

 

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芭蕉と曾良の上陸した清川にある芭蕉像

 

IMG_2578_清川_1_芭蕉像

 

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清川と月山の地図

 

IMG_2584_月山

 

〈八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶、身こゞえて頂上に到れば、日没て月顕る。
雲の峯幾つ崩て月の山〉

 

月山と羽黒山を麓から眺めて、酒田に向かう。酒田市内の芭蕉ゆかりの場所をめぐる。

 

〈川船に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許と宿とす。
暑き日を海にいれたり最上川〉

 

酒田にて、芭蕉たちの泊まった不玉庵跡。

 

IMG_2590_酒田_1_不玉亭

 

庄内ホルモン。脳内ホルモンのシャレかー。

 

IMG_2595_酒田_2_庄内ホルモン

 

日向山公園に行く途中の斎藤鮮魚店の鮭おくり風干。

 

IMG_2600_酒田_3_鮭おくり風干

 

『おくりびと』で使われた古い建物。元割烹。

 

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顔。日和山公園のそばにある砂高山海向寺の入り口にあった厨子(と思う)。

 

IMG_2608_酒田_6_顔

 

喫茶Newセピア

 

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日和山公園の芭蕉像

 

IMG_2616_酒田_8_日和山公園の芭蕉像

 

日和山公園の六角灯台。1895年の洋式木造灯台、木造としては日本最古らしい。

 

IMG_2620_酒田_9_日和山公園の

 

芭蕉坂。芭蕉が酒田に船で着いて、曾良と二人でこの坂を上って不玉庵に行ったという。

 

IMG_2630_酒田11_芭蕉坂

 

26日は、3時すぎに東京に戻る編集者さんと赤波江さんと別れて、丸山君と二人で長岡まで。特急いなほ号で新潟へ。新潟から長岡には新幹線MAXとき。このいなほ号のチケットホルダーは便利。新幹線にもつけてほしい。たしか、ニューヨークのセントラルステイションから郊外へ行く電車にもこんなのがあった。写真は、電車の揺れでかなりぶれていて分かりにくいが、前のシートの背にポケットがありここにチケットをさしておくと車掌さんが確認していく。

 

IMG_2634_酒田_12_チケットホルダー

 

IMG_2661_NYのチケットポケット

 

27日は朝のバスで、出雲崎まで。目的は海岸から見える佐渡。9時10分、出雲崎車庫行き。良寛記念館前、10時着。670円。良寛の真筆を楽しむ。丸山君が午後のバスが調べたのと変わって14時までないと、深刻な顔。朝の10時について、14時まで時間がつぶせるか心配している。ホテルで出雲崎のパンフを見つける。

 

良寛記念館。出雲崎は、良寛の生まれた地でもある。小さな美術館だが、良寛の真筆が見られる。

 

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良寛記念館包装紙_20161116

 

記念館の庭の裏にある丘から出雲崎の町が見える。この丘は旅立つ良寛と別れた母が手を振った。この丘から望む佐渡島が絶景。出雲崎の特徴のある妻入りの家が見える。

 

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IMG_2650_絶景

 

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なぜかこの裏の丘に山頭火の碑がある。

 

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良寛生誕の地に立つ、安田靫彦設計の良寛堂。良寛像があり、海と沖に浮かぶ佐渡島を見ておられる。

 

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良寛堂の元のバス停だろうか。

 

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目的地の芭蕉園

 

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〈七月四日の朝に弥彦を出発。途中に寺泊町の西庄寺で弘智法印の即身仏を拝観し、「ノズミト云浜ヘ出テ」(曾良日記)、出雲崎へ着いた。[略]原典の越後路の最後に記された、有名な「荒海や…」の句は、ここから出雲崎のあたりで想を得たといわれている。
芭蕉当時の出雲崎は、越後の天領七万石を治める代官所が置かれていた。かつ佐渡の金山をも支配し、金の陸揚げ港として繁栄していたという。芭蕉はここで、大崎屋という旅籠に泊まったと伝えられている。大崎屋の跡は旧北国街道沿いの浄巌寺保育園の近くに標識が立つ。狭い道の両側には古い民家が軒を並べ、いかにも旧街道らしい風情である。
芭蕉園はすぐ先で、芭蕉がこの地を訪れたことを記念して作られた小公園。〉(『奥の細道を歩く』監修:関谷淳子/JTBパブリシング/2009年刊/『奥の細道』原文引用も同書より)

 

〈酒田の余波日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国市ぶりの関に到る。
荒海や佐渡によこたふ天河〉

 

石川九楊さんは『日本書史』で、良寛の書についてこう書いている。

 

〈良寛の書の美しさとは、詩の文体が起筆に始まり、詩の成立に至るまで、そっくりそのまま、書体(書)として写し込まれている美しさなのだ。〉〈夏目漱石、森鴎外など多くの近代文士の書の筆画は細く痩せているが、その起点は良寛にある。なぜ良寛や近代文士の書は痩せるか。それはちょうど白隠の書が社会との距離の失調によって極端に肥え(時に痩せ)ることと対照的な位置にある。良寛は社会に対して、知識人一般よりもさらに少し身を退き、距離を確保する。詩的比喩を用いれば、一~二ミリ遠ざかるのである。ごくわずかにすぎないが、その距離に、社会を遠望し、遠望する場に、批評の眼が生じる。その自省を伴った批評の眼こそが近代性であろう。詩歌についても「良寛の近代性」がしばしば囁かれるが、その近代性は社会との距離に生じ、その距離が筆画の細さに投影されているのである。〉

 

良寛記念館のショップで買った良寛さんの書の複製。

 

良寛_20161101

 

〈江戸二而 維経尼 良寛  君欲求蔵/経 遠離故/園地 吁嗟吾/何道 天寒/自愛 十二月廿五日/良寛〉(江戸にて 維経尼 良寛  君は蔵経を求めんと欲し/遠く故園の地を離る/吁嗟吾何をか道わん/天寒し自愛せよ)解説には、良寛より七歳若い維経尼に当てた手紙。豪商の娘で夫の死後尼になり、良寛と交遊。徳昌寺住職の大蔵経購入の資金援助のために、江戸へ勧進に行った彼女への想いを漢詩にして送ったもの。

 

長岡駅に戻るバス停。午前中は6時と8時と10時に一本ずつ、午後は14時、16時、17時、19時に一本。テレビの蛭子さんたちの「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」が苦労するはずだ。このバス停でおばあさんと話す。町はさびれていく。東京の大学を出ても、ここでは就職ができないので帰ってこられない。この町では仕事らしいものは漁師しかない。若い人がいないと町はさびれる。家は狭いし、古い家は取り壊されていく。

 

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IMG_2705_バス停

 

〈一茶〉
『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 12 「松尾芭蕉/奥の細道 松浦寿輝 選・訳」「与謝蕪村 辻原登 選」「小林一茶 長谷川櫂 選」「とくとく歌仙 丸谷才一 大岡信 高橋治」』河出書房新社/2016年刊/四六判/角背

 

一茶_20161115_111516

 

前回、一茶の本について書いた。長谷川櫂さんの一茶は、田辺聖子と藤沢周平とは違う。一茶の俳句を「江戸後半という近代社会の一市民」のものとして語られている。長谷川さんが一茶を応援している。小林一茶の俳句を新発見する。
〈一茶の俳句は誰にでもわかる。最大の理由は一茶が古典文学とは無縁の人だったからである。芭蕉は江戸時代前期の古典復興の時代に生まれ、古典文学の薫陶を受けて育った。芭蕉は日本や中国の古典文学を踏まえて俳句を詠んだので古典を知らない人にはわからない深遠なものだった。(略)東国の山村で育った一茶は生まれたときから古典などとは縁がなかった。一茶の俳句を育んだのは故郷柏原や江戸の下町の人々の話す日常の言葉だった。だからこそ一茶の句は誰にもわかる句になった。芭蕉が試みた古典離れを一茶は地でできた。こうして一茶は俳句の大衆化=近代化の時代の最初の人になる。〉
〈初雪や古郷(ふるさと)見ゆる壁の穴
(略)できることなら江戸のあばら家暮らしを切りあげて、あの雪の温かな懐の中へ帰りたい。とはいうものの愛する父はすでになく、自分が相続すべき家では継母が腹違いの弟と暮らしている。一茶の胸に去来する虚しい思いを知るや知らずや、壁の穴の奥の故郷では雪が降りつづいている。
みごとな心理表現といわなくてはならない。雪の句というだけでいえば、芭蕉にも蕪村にもこれほど深く自分の心の襞を表現した句はなさそうだ。近代俳句の開拓者といわれる子規に先立つこと百年。ここにはすでに古典を典拠とせず、生身の言葉で自分の心を表現する近代が生まれている。
このような句がいくつもある一茶を、なぜこれまで誰もが格下の俳人と見くびってきたか。「子ども向け」「ひねくれ者」という偏見が先行して名句を見逃してきたのではないか。一茶の再評価とは埋もれた句を一句ずつ掘り起こすことである。〉
〈名月の御覧の通り屑屋哉
一茶には「ひねくれ者」の評判がついてまわる。だから芭蕉や蕪村よりもはるかに格下の俳人であるとみなされる。一茶を腐すことによって、まるで自分が上等な俳人であるかのようにふるまう人までいるから始末に困る。
そのような御仁にとってはこの「名月の」句も、ひねくれ者の句ということになるのだろう。たしかに江戸のわが家を屑屋も同然と嘲ってはいる。しかし、この句のどこにひねくれ者の一茶がいるだろうか。むしろここには、みすぼらしい自分の暮らしを笑いに変える快活で明朗な一茶がいるばかりではないか。
一茶の句をよく読めば一茶がひねくれ者どころか、逆に素朴で素直な人柄であることがわかる。

 

父ありて明ぼの見たし青田原
初雪や古郷見ゆる壁の穴
心からしなのゝ雪に降られけり

 

こんな句を詠む人が過酷な現実に組み伏せられるとき、呻き声をもらす。それが一茶の俳句だろう。その結果、ひねくれているかのように映る。とすれば、ひねくれ者の評判は一茶がいかに自分の心を表現するのに長けていたか、一茶の近代性の証しにほかならない。〉

 

〈三六〉
新聞の朝刊の下の三六雑誌広告。三六と書いて「さんむつ」と読む。新聞の本文三段分の六分の一サイズということ。偶然となりあったのか。いやこの二誌はいつもこの位置に決まっている。「クロワッサン」と「旅行読売」。葬儀のこころがまえの年配向けの特別編集、かたや「わがままひとり旅」特集。同じ一人の旅でも大きな違いだ。

 

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〈カレンダー〉
京都のUmweltで見つけたダックス。しっぽの付け根がちょっとはげてる。金属製でこんなに小さい。

 

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〈久保田万太郎と芥川龍之介〉
今日、11月16日から、人形町ヴィジョンズギャラリーで「久保田万太郎と芥川龍之介」がはじまる。26日まで。絵は、大高郁子さんと漆原冬児君。私が企画して年二回で続けた「Illustrators’Galleryシリーズ」の第6回。一応これで最終回。20日の日曜日には、いつものように作家の関川夏央さんと俳人の高山れおなさんの大高さんと漆原君をまじえたトークがある。ぜひ、おいでください。昨日、無事に搬入と展示を終了。一部紹介します。

 

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この展覧会に合わせて、大高さんが全288頁、300部限定の『久保田万太郎の履歴書」を自費で作った。会場で販売しているので、ぜひ手に取って見てください。

 

『久保田万太郎の履歴書』大高郁子 絵・編/四六判変型 左右130ミリ×天地165ミリ/並製
日本経済新聞に連載された、久保田万太郎の「私の履歴書」(1983年に単行本化)から、文章を引用抜粋して、大高さんが268点の絵を描き下ろしている。作家の伝記をこんな絵本仕立てにするアイデアと絵が素晴らしい。頒価1500円(税別)。

 

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レナード・コーエンが亡くなった。中川砂人さんのfacebookで、彼が2010年の春一番コンサートでレナード・コーエンの「Hallelujah」を歌っている投稿を見た。

 

今日の一曲
Famous Blue Raincoat/Leonard Cohen