レナード・コーエン、中原昌也、矢吹申彦さん、潮田登久子さん、冨岡雄一さん

〈レナード・コーエン〉
先週、午前中のラジオ(NHK「すっぴん」金曜日)で、今週のMUSIC SCRAPの担当の中原昌也が、先月亡くなったレナード・コーエンが大好きだと言っていた。意外だったが、さすが中原昌也だと嬉しくなる。彼が追悼で選んだ3曲は、Suzanne、Diamonds In The Mine、So Long Marianne。「これ、全部おねえちゃんの歌だね」「ボブ・ディランがノーベル賞をとったけど、レナード・コーエンも、前に候補にあがったんだよね」と語る。彼はカラオケでコーエンの曲を唄うらしい。

 

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〈矢吹申彦さん〉
『nob. music magazine 矢吹申彦音楽図鑑』P ヴァイン/2016年刊/B5判/並製

 

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矢吹申彦さんの「ニューミュージック・マガジン」の表紙の絵と、音楽について描かれた絵の作品集。
〈田川律が、こんな雑誌を作っているのよ、と云いながらくれたのが、中村とうよう編集の『ニューミュージック・マガジン』の創刊号。(略)あたかも研究冊子かと思わせるカタイ表紙のデザインに「ロックの雑誌でしょ」と云い、すぐに次号からの表紙を含めたADを引き受けることになった。〉
〈小倉エージのプロデュースで岡林信康の『わたしを断罪せよ』のジャケットの絵とデザインを担当する。フォーク・アルバムとは云え、十代半ばで憧れたLPジャケットの初めてのオリジナル作品となる。翌年のジャズ喫茶仲間の後輩で、ギタリストの直居隆夫のファースト・アルバム『what’s happening?』が、正真正銘、ジャズの初LPジャケットである。〉
『わたしを断罪せよ』は、矢吹さんだった。ジャケットのデザインは覚えているが、矢吹さんの絵とは意識していなかった。だったらあれは誰の絵なんだといわれると困る。『what’s happening?』は、ミルトン・グレイザーの影響が濃い。どちらも1969年、矢吹さんは44年生れだからこのとき25歳。
〈音楽、音は見えない。音楽は空間に響き空間に消えていく。そのような捕らえることの出来ない抽象的のものを、平面絵画という具象にすることに意味はあるのか。そう、もし意味があるとすれば、描き手である私の想いが、見る人と共有出来た時である。〉
この作品集を見ていて気がついたこと。矢吹さんの描く人物は正面向きが多い。みんなこっちを見ている。

 

〈潮田登久子さん〉
『みすず書房旧社屋』潮田登久子/幻戯書房/2016年刊/左右150mm×200mm/上製

 

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潮田登久子さんの久しぶりの作品集。本郷3丁目にあった、みすず書房の旧社屋を撮っている。
〈1995年から本と本の置かれている環境を主題にして私は写真撮影を続けて参りました。撮り貯めた写真を、『みすず書房旧社屋』『先生のアトリエ』『本の景色』の3つの主題にまとめ、「本の景色/BIBLIOTHECAシリーズ」として作ることにしました。この本はその中の1つです。〉
カバーには、たしかに「SERIE BIBLIOTHECA 1/3」とある。このあとに2冊続くのだろう。『先生のアトリエ』『本の景色』の作品の一部は、以前にご本人から見せていただいたことがある。みすずの作品は知らなかった。潮田さんの写真の中で、旧みすず書房に本郷3丁目17の住居表示のプレートがついたものがある。1984年に東京に来てから、私はずっと本郷3丁目23にある写植屋さんに通っていた(今でも、デジタルフォントの組版を一部をお願いしている)のに、近くにみすず書房があることに気がつかなかった。

 

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みすず書房の元社長の加藤敬事がこんな文章をよせている。文中のジョージ・エプスタインは間違い。すごいなー。ジェイソン・エプスタイン(Jason Epstein、引用されている原書のタイトルは“Book Business: Publishing Past, Present, and Future”)である。
〈木造モルタル造り二階建て、普通の仕舞屋風情の、ビルに比べれば小屋と呼んでもよいような建物である。小屋といえば、アメリカの出版人、ジョージ・エプスタインという人(書評誌、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス、通称NRBを起ち上げた)が、その著書『出版、わが天職』の中でこんなことを言っている。「出版は本来、cottage industryである」と。みすず書房の社屋はまさにcottage、小屋だった。ではなぜ、出版業は小屋でなされなければならないのか。エプスタインはこう付け加えている。少し長いが引用すると「出版は集中を嫌い、即興的で、人間味のある産業。それには自分の職人技に専念し、自主性を侵すものには用心を怠らず、著者の要求と読者の多様な関心に敏感という、共通の心意気をもつ人々の小さな集団が一番です」と。そんな小さな集団を容れる器は小屋で十分、あるいはそうでなければならぬというわけである。みすず書房の社屋はまさに小屋であり、そんな集団がそこに住み着いていた。みすずの創業者、小尾俊人も、粗末な社屋にびっくりする著者に「精神は新しく、建物は古く」などと威張っていたが、どうだろう、先の引用のようなことを言いたかったのではなかろうか。
とはいえ、万物流転、物には耐用年数とうものがある。みすず書房旧社屋のあった三角の土地は、今は24時間のコイン・パーキングとなって、数台の車が駐車している。本づくりに憑りつかれた夢の跡の現代風景である。〉

 

〈冨岡雄一さん〉
『東淀川通信 冨岡雄一コラム集』ワイエスディーディー/2016年刊/B6判/並製/非売品

 

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2014年に亡くなった、冨岡雄一さんの遺稿集。チャンネルゼロの社長。ニックネームは「社長」。関西大学の漫画同好会の同人誌の名前をそのまま会社名に、そのOBが集まって作った会社。雑誌「漫金超(マンガ・ゴールデン・スーパー・デラックス)」を発行、いしいひさいちの単行本を主に編集、出版した。私と同い年で、彼が住んでいた相川(大阪市)は安威川をはさんで、私がいた南高浜町(旧、神境町/吹田市)のとなり町だった。後年、村上知彦に誘われてチャンネルゼロの刊行物のデザインを手伝うことになって冨岡さんと会う。通っていた小学校、中学、高校ともちがうが彼の容貌には見覚えがあった。その後は長いつきあいである。にもかかわらず、彼がこの本に書いている、お互いに共通する土地の思い出について語りあったことがほとんどない。冨岡さんの文章を読みながらそのことが悔やまれてならない。
この本をまとめた、チャンネルゼロ工房OBの佐竹玄吾の編集後記から。〈冨岡さんの葬儀が終わり、しばらくして会社の資料と冨岡さんの私物を整理するため峯正澄氏と村上知彦氏とで家の片付けをした。会社関係の資料は会社の整理業務を引き受けることになった村上氏が持ち帰り、いくつかの荷物を私が預かった。それは未組立のプラモデル百箱ちかくと文庫や漫画本などが詰まった段ボール箱だった。未組立プラモデルをヤフーオークションで売ったところ、売上金が十万円ちかくなった。(略)文庫本や漫画本が詰まっている段ボールはそのままほっておいたのだが、昨年末に整理したところ箱の一つから新聞の束が出てきた。それは産経新聞夕刊大阪版の平成十四年十月から毎土曜日の最終面、約二年分の束だった。紙面にはいしいひさいち氏のバイトくんと冨岡さんの「東淀川通信」と題された短いコラムが載っていた。冨岡さんのコラムは百十編あった。〉

 

さて、肝心の『東淀川通信』の本文の一部を紹介しなくては。「映画館」と題された一編。〈映画館といえば、子供の頃は悪がきとよくかくれんぼなどをしていた。それぐらい映画館というのは子供の遊び場でもあった。近頃は館数が減って、しかもよそ行きの劇場ばかりだから子供が騒げたものではない。昔は吹田駅前に五軒の映画館があった。今は一軒も残っていない。その頃の映画館は二階が座敷になっていて移動しやすく、今思えば悪がきどもの暗躍が夢のようである。〉
東映、松竹、日活、大映、東宝の封切館があった。あんな小さな町に五館もあって毎週映画がかかっていた。
「堤防」というタイトルの一文。〈近くに川が流れていて、小さいころは河原や土手堤でよく遊んだ。そのころまだ健在だった祖母に「てーぼー(堤防)行くのやったら気いつけや」と注意を受け、それを耳にしながら走って行く。祖父とは一緒に連れられ、たこ揚げや飛行機で遊び、自作の草スキーで土手を滑った。悪がき仲間とチャンバラをしたり、戦争ごっこでよくケガもした。とにかく、てーぼーは子供の遊びの宝庫であった。〉この堤防には私もよく行った。河原が広く、穴を掘って戦争ごっこをした。その穴は常設になってしまっていたので、こどもたちが共有していたかもしれない。「模型店」では〈模型店へ行くのが好きである。子供の頃、吹田の模型店へよく行き、店先に飾られていたかなり大きなスケールであったろう戦艦大和の模型を一日眺めていたことがあった。自分でもプラモデルのキットを買って作ってはみるが、その店先や雑誌に掲載されるようなものとは程遠かった。その後プラモデルでは何度となく失敗と挫折を繰り返したが、今でもやっぱり模型店への訪問は欠かさない。〉この模型屋さんは、吹田第三小学校のそばにあった店だと思う。私もよく通った。最初は、セメダインでつける木製の戦艦のモデルだった。

 

演出家で「月蝕歌劇団」主宰の高取英のブログ日記を見ると、訃報のハガキを受け取って3月29日と30日に、続けて冨岡さんのことを書いている。〈チャンネルゼロの社長 冨岡雄一さんが2月19日に他界した、との知らせのハガキがきた。64歳。社長、社長とニックネームのように、皆、呼んでいた。〉〈優しく、大人だった。感情的なところを見せたことは、なかったな。まわりより、二歳ほど、上だった。先輩としての矜恃だったのか。上品な大阪のひとだった。学生時代、まちがいで、学校当局に引っ張られ、出てきたとき、学生に拍手をもらったのが、照れくさかった、という話が、彼を表していた。〉〈漫金超が出たあと、チャンネルゼロにいったのだったか。村上知彦氏は、その前から知っていて、初期のチャンネルゼロには、私が行くと、峯正澄氏や、高宮成河氏もいた。事務のひとは、後に秋月りすさんとなる。冨岡雄一さん、つまり、社長と飲んだのは、もう少し後だ。三、四年後だったような気がする。レオナルド いも氏が一緒のときが多かった。〉

 

〈学士会館のドア〉
学士会館は1928年建設。会館のこのドアの「押」「引」の文字はその昭和初期に流行したデザイン。ピカピカに磨かれた真鍮製で現役を誇っている。

 

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〈十貫坂教会〉

久しぶりに十貫坂教会の説教のタイトルシリーズ

教会1  「向こう岸に渡ろう」欧州に押し寄せた難民たちのことか。

 

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教会2 「キリストはあなたに用がある」

 

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教会3 「真理の邪魔をするな」 真理って何だろう。誰にとっての真理だろう。

 

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教会4 「真の自由の用い方」 自由はどうやって使えばよいのか。

 

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〈みかん〉
新目白通りの首都高早稲田出口のそばの歩道に植わっているみかんの木。みかんというよりは、夏みかんかな。事務所のビルの前にも同じみかんの木がある。ここの種かもしれない。

 

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〈カレンダー〉
今月のカレンダー。埼玉県立近代美術館のショップにあったドイツの木製おもちゃ。とても小さい犬たち。黒いのはオオカミかな。新聞の活字と比べてください。

 

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〈落ち葉の犬〉

 

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レナード・コーエンに続いてレオン・ラッセルも亡くなった。
今日の一曲はこれ。
This Masquerade/Leon Russell