飯島洋一、花森安治

サッカーのW杯。日本代表は足が遅い。強いチームの選手は走るのが速い。とてもスピーディで、見ていて気持ちがよい。走り負けていては勝てない。残念だった。

 

“kick off”はサッカーだけではなく、「始める」という意味に使うみたい。start、beginと同じ。“Tomorrow, Wimbledon kicks off.”とか“Glastonbury Festival kicks off next week.”などと、Inter Fmで聴いた。

 

 

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6月15日の毎日新聞の書評欄が紹介していた「ユリイカ」の飯島洋一の〈特別掲載「らしい」建築批判〉が痛快。この雑誌を毎月買うようになったのは、羽良多平吉さんが表紙をデザインしているからだ。それに、去年の3月号の飯島さんの連載「破局論」11回目〈冷戦と冷血〉に気づいて、あわててバックナンバーを集めたりした。なにせ、11Q、32字×25行×2段組(行送り16.75ぐらい。版面の左右幅にあわせているようなので、行間は端数がでている)で20頁をこす。しかも、書体があの〈悪名高き〉「イワタ明朝体オールド」。細くてうすい。読む気にならず無視していたが、頁をめくっているとブレッソンやらベンヤミン、ウォーホル、カポーティなどの名前がチラホラするのでつい覗いてしまった。この連載は4月号で終わり、すぐに単行本が出た。

 

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『破局論』飯島洋一/青土社/2013年/戸田ツトム装幀

 

その飯島洋一が、3月号でザハ・ハディドの国立競技場案とその審査過程にかみついて、現代建築のブランド化を批判している。

 

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〈二本の巨大な梁だけで、大空間を持たせようとすれば、尋常ではない構造費用がかかることくらい、批評家の私にですら、すぐにわかる話である。だから実績を積んだ、しかも世界トップクラスの建築家である安藤忠雄に、それがわからなかったはずがない。それなのに彼は、ハディド案を現実に最優秀賞に選んだ。〉

 

〈コンペの応募時の、あるいはコンペの審査のプロセスで、何よりもはっきりと求められていたのは、最初からそのような五輪の祭典に適う“スター建築家”、そして“ブランド建築家”の存在だったのである。〉

 

〈ハディドは敷地の条件や、その土地の歴史や風土、周辺環境や気候、予算、あるいは実際にそれを使う人たちのことよりも、彼女自身の建築美学とダイナミズムの方を常に最優先する。その美学的優先主義こそが、彼女の作品が一貫して批評家に、ハディド「らしい」建築だと評価される最大の理由である。〉

 

〈つまり一部の世界的な建築家たちは、いまや彼らの建築学的なフォルムだけでなくて、“その建築家の持つ名前の威力”が、世界市場で巨大な“ブランド価値”になっているのである。施主たちはその建築家の建築そのものでなく、その建築家の名前の威力、つまりあの有名な建築家がつくったという“ブランド”を、たとえ高額でもいいから是非とも買い取りたい。施主たちはザハ・ハディドや安藤忠雄やフランク・ゲーリーやレム・コールハースの仕上がりの良い建築を、実は第一義には求めてはいない。彼らが欲しいのは、たとえばこれは安藤忠雄がデザインした建築だという“事実”の方だからである。〉

 

〈いわば世界の建築の動向は、安藤忠雄「らしい」建築が、つまり定番商品が欲しいという“マーケットの欲望”の中で、常にくるくると回り続けているのである。〉

 

〈何よりも重要なのは、建築はそれを実際に使う人たちのためのものだという当たり前の事実である。だからお金を出す人よりもそれを実際に使う人の意見を素直に聞くのが、本来の建築家の正しいあり方である。この当たり前の仕事が、本質的に全ての建築家に“使命”として求められている。その意味で建築家とは芸術家ではなく、あくまでも設計技術者であるべきである。〉

 

〈能勢陽子のような学芸員が、石上純也の建築の“インスタレーション”をまるで正規の「建築」のように見做してしまう。それが破損しようが、実験的「建築物」なのだと言い切ってしまう。だから石上純也自身も、それで良いと思い込んでしまう。こうして建築はアートと肩を並べたと、この若手建築家は大きな勘違いをすることになる。〉(以上3月号)

 

〈「新冷戦」と言っても、冷戦の時代のような、イデオロギーの相違による東西の対立ではない。西と東の対立はあっても、その介在物はすでに政治でなくて資本なのである。中東の場合も、西側の資本主義の描いた筋書きが、多くの部分での動向をリードしている。だから、アラブの革命も、何時までも収拾がつかず、混乱し続けている。革命そのものがすでに閉じており、それを解決するには、中東社会が西側の資本主義に迎合するしか、他に選択肢がないのである。しかしイスラム原理主義がそれを受け容れるはずがない。一九六八年のパリ五月と、アラブの春の場合とでは、半世紀を挟んで、革命の在り方そのものと、それを取り巻く世界の状況とが、大きく変化しているのである。〉(5月号)

 

一回きりと思いきや、この〈特別掲載〉連載がつづいて6月号ではすごいことになっている。現代建築大批判。読んでいると、建築だけではなく、グラフィックデザインやイラストレーションも同じだと気づく。「破局論」のように回ごとに独立した読み物になっているので、途中から読んでも大丈夫。

 

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〈こうして建築家は、芸術家のように「作品」をつくり、それによって「創造性」「独創性」「個性」を追いはじめる。むろん仮にそのように考えたのだとしても、残念ながら絵画や彫刻とは異なり、建築は芸術ではないのである。何度も言うが、建築を芸術だと保証する「制度」がないからである。むろん建築は芸術ではない。だが、一度、権威のある人物がある時、「建築も芸術である」と言いはじめると、他の人も、建築が「芸術」に見えるようになるのである。そしていつの間にか、建築家は芸術家のように「作品」をつくるべき人であることが、ごく当然な話になる。〉

 

〈建築が芸術であり、建築家は「自己表現」としての「作品」をつくるものだという思い込みは、十九世紀にはじまった「神話」にすぎない。にもかかわらず、その「神話」の力はかなり根強い。現代の建築家のほとんどが、それを当たり前のように考えており、信じて疑わないからである。〉(以上6月号)

 

引用が長くなった。「ユリイカ」の表紙デザインのことは、次回以降にする。

 

さて、版面と花森安治について続ける。これ以外に花森安治装幀の池島さんの著書がもう一冊ある。

 

『雑誌記者』池島信平著、中央公論社、1958年。上製。角背。四六判(130mm×188mm)スピンなし。花布はジャケットの写真にあわせて茶色。袖の幅が広い(表1が100ミリ、表4は107ミリとサイズがちがう)。58年のこの時代、ジャケットに写真を使った本がどれくらいあったのだろうか。こんな写真を撮るのは花森自身だろう。今なら、アイデアとしてはありきたりだが、当時としては新鮮な工夫にちがいない。インク壷、手帖に鉛筆、懐中時計、ゼムクリップ、マッチ、眼鏡、ペン、鉛筆、赤鉛筆、鉛筆削り、スコッチウイスキーのミニボトル、文鎮、ピース(煙草)。眼鏡もタバコも逆向きなのが不思議。タイトルは、目玉クリップではさんだ紙の切れ端に、手書きの文字。活字指定が赤で記してある。上の青い星はなんだろう。〈初号 字間二分アキ〉〈3号 字間全角〉〈12P 字間ベタ〉。

 

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ちょうど、58年から「暮しの手帖」の表紙が、創刊号以来の絵から写真に変わっている。44号から92号まで(途中57号はなぜか絵)。『雑誌記者』のジャケットはその流れにあるのだろう。これも、「暮しの手帖」の表紙も、花森安治の写真は独特だ。4×5や6×6の大型、中型カメラで撮っている(資料図版は『花森安治のデザイン』より)。いわゆる欧米風のモダンではない。花森風昭和家庭モダンと言ってもいいような味わいだ。

 

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背は白、小さい活字で組んである。タイトル16ポ、著者名12ポ、タイトルと著者名の間は12ポ1字分アキ、天から10ミリに、極端にせり上げているのがすっきりする。社名は地から3ミリに横組。表4は特色黄色。袖の著者紹介はごく普通だが、この下げ方はある意味モダンなのかな。ジャケットを広げて表1からのつながりはよい。表1の手描きのタイトル文字の〈雑〉が旧字と、表記統一おかまいなしなのがほほえましい。

 

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表紙はクリーム色の紙に活字のタイトル。背は黒、ジャケットと同じ文字デザイン。ジャケットの背は白、表紙は黒とコントラストをつけている。表紙の表1に横組の活字のタイトル。16ポ(タイトル、著者名に大きさの差をつけていない)。見返しはクリーム色の少し厚手の紙。扉は同じ紙のすこし薄手で、グレーの枠の中にタイトルで文字は表紙と同じ大きさ。ジャケットのデザインとは関連がない。

 

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目次は花森らしい大きな文字で、版面をノドによせている。デザインクレジットは〈装幀・花森安治〉。

 

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本文は9ポ、43字×16行、行間7。ノンブルと柱の本文との間は1字分で、同じく1字分本文版面より内側。ノンブルと柱を本文の左右にそろえないのはデザイナーの考えかもしれない。印刷所は凸版。本文書体は、金属活字なのでもちろん凸版明朝。前回の『人間・世間』は大日本印刷で、本文書体は大日本明朝(秀英体)。『編集者の発言』は理想社だが、本文は大日本明朝で「あとがき」の8ポが理想社の書体のようだ。

 

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版面は、左右86ミリ、天地134ミリ。小口から23ミリ、ノドから21ミリ、天24ミリ、地30ミリ(実測で、計算値ではない)。悪くない。

 

大見出しは12ポ、本文2行目にそろえてある。小見出し8ポゴシック、5字までだと字間をあけて2分アキ(6字だと4分アキ、7字はベタのみ、8字だとあいているのとベタがある)、それ以上はベタにしている。これはなんだ。小見出しはある程度の長さであってほしい方針があったのか。こうバラついているとチェックが杜撰なのだろう。奥付が面白いが、検印がない。

 

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今日の一曲は、これ。すこしは飯島さんの話とつながるかな。Something To Be Said About Airstreams/Shelby Lynne