古座川 その2
「金麦」の最新作。このシリーズけっこう禁欲的(金麦的?)でシンプル。角ハイボールと同じ路線かな。美人女優のアップとグラス。そして(私だけには)意味深なキャッチコピー。今回は〈ていねいに、ていねいに。〉ときた。「角ハイボール」では〈つめたい〉で文字がつめつめだった。デザイナーは、〈ていねいに、ていねいに〉仕事をしないといけない。でも、右側の壇れいのぼやけた顔は必要なのかな。手元だけで十分な気がする。(電車内の窓上広告で、つり革がじゃまでうまく撮れずに図版分割でお許しを)
前回の古座川のつづき。ついでだからもっと宣伝しよう。『街道をゆく』についても書きたい。しばらくおつきあいを。
母にたずねたら、結婚してすぐ、私が生まれる前に二年つづけて、父と共に三尾川に行っている。戦後すぐで、周参見からバスなどなくて二人は材木を運ぶトラックに乗って、林道をゆき山越えをした。
『街道をゆく』の地図(2005年刊「ワイド版 街道をゆく」から)は、文庫新装版では、2011年7月1日現在で、串本町(旧・古座町)という表記になっている。ご多分に漏れず、2005年に西牟婁郡串本町と東牟婁郡古座町が合併して東牟婁郡串本町になった。このとき古座川町は住民が反対して合併をことわった。おかげで古座川の地名が残った。民宿「鮎のたなみや」のおかみさんの東英子さんからきいた話。
『街道をゆく 8』の熊野・古座街道へは、司馬遼太郎さんたちは1975年の4月にでかけている。もとは「週刊朝日」の連載。かなり辛辣なことが書いてある。バブル景気の10年前だ。すこし引用してみる。
〈われわれの社会は、つねに気ちがいじみた変貌を遂げたいという異常なーースエーデンやデンマークにくらべてーーエネルギーを潜在させてきている。国をあげて一大工業都市にしてしまうようなことをしたかと思うと、そうではなく中国の江南のような一望の田園にせよ、という議論も出ている。いつになればゆるやかな平衡を楽しむ時代がくるのか知らないが、それはともかく、Kさんや私のように一九二〇年代にうまれたような者が、自分の少年時代を回顧するとき、中学校が一県に十もなかったということを説明せねばならず、また古座川筋のことも、新宮がニューヨークか東京のようにきらびやかだったということを前置きすることなしに、少年時代の心象風景さえ語れないのである。〉
Kさんは司馬さんの友人で〈紀伊半島の南端の古座川渓谷の出身〉である。〈私とおなじく大正末年の生れで、私より三つ若く〉〈すぐれた建築家〉で〈ついでながらKさんは神野章という〉。
司馬さんたちは、天王寺を午後7時に出た。古座にいく前に白浜に泊まっている。須田画伯、編集部のHさん、Kさん、司馬さん。カメラマンも一緒のはず。
〈いつ白浜へ来たのか、とKさんはきいた。たしか昭和二十九年だったと思う、というと、Kさんは笑いもせずに、
「それはもう、日本観光史からいえば古代のような段階ですな」
と、いった。日本の観光地が気ちがいじみた水商売資本の元に大変貌を来すのはその後二十年間のことで、それより以前の白浜は、客が来れば湯に入れるというだけの素朴な時代がつづいた。昭和二十九年といえば、その最末期かもしれない。〉
〈古座川の川たけ七カ所のうち、もっとも海抜の高いのが、七川村である。そこにダムがある。
「ダムができれば、川たけは何もかもよくなるとおもったんですが」
叔父さんの神野歌蔵氏が、いった。
「よくないんですよ。古座川の水が、濁るようになったんです」
路傍から古座川の渓流を見おろしてみたが、瀬も淵も、いかにも澄み通っていいて濁っている様子はない。が、ダムができる前の古座川の水の透明度というのうは比類ないものだったという。
「とてもこんなものじゃなかったんです」
神野優氏がいった。
結局、川へはダムの底の水が流れこむために濁るのだという。ダムの底の水は水温が低くなってそれまで淡水魚の宝庫といわれたこの川に魚があまり棲まなくなったというのである。なるほど氾濫はふせげたが、差引すればどうだろうかという疑問が村々にある。
「河川土木に限りませんが、自然に手を加えるというのは、むずかしいものですな」
と、神野歌蔵氏はいった。〉
私が子供の時に古座川に来たのは、1960年ころ。司馬さんが75年。その29年後の今年でも、私には川の水はとても透明で澄んで見えたのだが。
〈古座川は山峡を長流してはるかに熊野灘にそそいでいる。河口が、古座である。古座から物資を積んだ川船がのぼってきて、途中、いくつもの難所を経つつ、この真砂までのぼってきたというのである。
「船は、帆をかけています」
Kさんはいまでも夢の中に、そういう帆掛けぶねが幾艘もつながって古座川の急流をのぼってくる情景を見るという。
むろん川を遡るときは、帆を掛けてはいるものの、それだけでは動かない。櫓も竿もつかうが、櫓や竿も役立たぬ浅瀬にくると、曵子が川へとびこんで綱でひっぱる。冬でも飛びこんで川底を歩き、流れにさからいながら、船を曵くのである。冬場は馴れた曵子でも寒さで半死半生になってしまうそうで、曵子で長生きする者はいなかったといわれる。
ともかくも、そんな過酷な労働が、Kさんや私などの幼いころまで存在したということに、夢のような思いがする。日本の昭和の半世紀というものは、変化のすさまじさという点で、人類史上、どの人類も経験しなかったものではないか。〉
〈京都においてほとんど政治的に形骸化していた天皇家を擁し、天皇というものをも、朱子史観に照らして思想的記号化して革命イデオロギーをつくりあげた。明治国家がそれによって成立し、近代国家でありながら核心において普遍性皆無の皇国史観が敗戦までつづくのである。もし幕末において朱子史観が存在しなければ、「尊王攘夷」だけで革命をおこすようなことにはならず、革命の思想をもっと普遍的な所に求めたに相違なく、もしそうなれば、明治後の日本社会も人間精神の矮小さから多少とも救われ、もっとちがった近代人像を作りえたかもしれないと思えるのである。〉
〈西岸の岸壁には、一枚岩の場合と同様、石斛の花が粉雪のように白く咲いている。岩つつじはどうですか、とKさんの歌蔵叔父君にきくと、季節のころは岩つつじの花が美しかったのですが、近頃は都会にこのあたりの自生植物の情報が伝わったのか、車で盗みにくる人がふえて、去年かおとどしぐらいであらかたなくなってしまいました、ということだった。まことに凄惨としか言いようのない世態人情である。〉
司馬遼太郎は、すでに怒っている。本を読めば、惨事の前の警鐘を知ることがある。われわれは本の中から、それを見つけて心にきざんでおかねばならない。
前回にのせられなかった古座川名物ハッチョウトンボ。実は人口を書いたパネルの上にあった写真。さきの民宿の東さんに、小さくてかわいいので見るようにすすめられたが、蛭がでるといわれて尻込みする。これまで河口のほうには蛭はそんなにいなかったのだが、鹿が里まで連れてくるのだそうだ。ここにも鹿の害。
ムック版「週刊 街道をゆく」の古座川筋の写真。(2005年11月13日号)
古座川からの帰りは名古屋まで、そのままレンタカーで行く。休憩を入れて7時間。海岸沿いに42号線を走る。尾鷲から紀勢自動車道という高速道路ができている。その一部はまだカーナビに入っていなくて焦った。この道路はトンネルばかりで、おまけに片側一車線のみで緊張してとても疲れる。松坂で伊勢自動車道につながって、そのあと亀山で東名阪自動車道、それから名古屋第二環状にはいり名古屋駅のホテル。ここに一泊。
高速道路は面白くない。どこも景色が同じだ。あるところから次の地点まで急いで行くだけ。この歳になると楽しめない。時間に余裕があれば、あのまま海岸沿いに下の道をのんびり走りたかった。来年はそうしようと、次の夏も和歌山に行くつもりになっている。
次の日は、新幹線に乗る前に、名古屋駅近くのノリタケの森に行く。ノリタケ本社の敷地内に2001年に出来た複合施設。公園のようなところにミュージアムやカフェ、ショップ、赤れんがの元工場などがある。われわれはオールドノリタケを展示しているミュージアムと、職人さんの仕事が見られるクラフトセンターをのぞく。絵付けの職人のおじさんが「芸術新潮」のバックナンバーを参考にしていて感激。声をかけようとしたが、奥に行ってしまった。クラフトセンターでは質問すると手をとめて、製造過程を丁寧に説明してくれた。
ノリタケ、東陶、INAX、大倉陶園、はもとはみな同じ。夏目漱石の初期の豪華な本を出版している大倉書店、大倉洋紙店の大倉孫兵衛と森村市左衛門の出会いから始まっているのだそうだ。
今日の一曲は、テレビのモンティ・パイソン再結成公演できいたこれ。
Always Look On The Bright Side Of Life/Monty Python