本の雑誌、春一番、ドコモ、谷川俊太郎

フォントワークスから電話がかかってきた。「本の雑誌」の私の連載〈装丁ガンコ堂〉に、2月号で筑紫明朝オールドAのことを書いた、そのクレームかと思ったら〈LETS〉の売り込みだった。モリサワの〈パスポート〉など、必要のないフォントがずらずらついている年間契約などはしない。ほしい書体だけ単体で買うとこたえておいた。たずねてみると「本の雑誌」そのものを営業マン氏は知らない。椎名誠さんと目黒考二さんたちがつくった、今年で40年になる日本を代表する書評誌なのだ。文字の勉強会をしている若い人たちも知らなかった。表紙は和田誠さんのデザイン。5月10日頃に出る6月号は、「創刊40周年記念特大号!」と謳っている。それと、創刊号から10号までの10冊が復刻されて、箱入りで発売されるという。このBOXセットは5月20日ごろ発売だ。

 

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今年も、森英二郎さんの絵で、大阪の服部野外音楽堂で毎年五月の連休に開催される「春一番コンサート」のポスターを作る。昨年の4月2日のブログに、去年のポスターのことを書いた。今年の絵は森さんが、木版ではなくゴム版で、17点の絵を彫って一枚につないでいる。これまでの版画作品のリマスターのような作品。さまざまなイメージが重なっている。シバのレコードジャケット、西岡恭蔵の「街行き村行き」、金森幸介のCDの絵、中川イサトさんの「アイスクリーム屋」のモデルになった北浜の喫茶店「ゼー六」、過去の春一番ポスターの絵、服部緑地、天王寺野外音楽堂、などが描かれている。相変わらず素晴らしい出来である。

 

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国立博物館でトイレがわからなくて、案内のひとにたずねたら「あっちです」とトイレの方向を示す出力を貼り付けた大きな看板を指差した。美術館とサインデザインは切り離せない場所のはずだが、日本の美術館でなさけないのは、もともとのサインを無視して、そこら中にさまざまな案内の張り紙があることだ。ちゃんとデザインされているのならよいのだが、素人がパソコンで作った、身もふたもないものが美術館の空間にはびこっている。業務連絡書類感覚なのだ。

 

美術館へ行くのは、ただ絵を見るためだけではない。建物のデザイン、インテリア、展示方法、サインデザインもそこを訪れるものには大切なことだ。日常的な空間ではないのだから、運営する人たちは展示される絵に負けない美意識で美術館を考えてほしい。それこそが文化や芸術にたいする奉仕であろう。われわれに足を運ばせるのなら、ただ名画を並べるだけではなく、空間や展示プラン、館内のデザインも美しく工夫することを心がけてほしい。

 

中野駅そばの、NTTドコモ中野ビル。真っ黒な高層ビルの窓に、巨大な出力文字が貼付けてある。駅のホームから、この情けない風景が見える。企業は都市の風景に責任を持ってほしい。ビルのデザインにいくら工夫をこらしても、これじゃ台無しだ。一階にドコモショップがあることを知らせたいのだ。子供じゃあるまいし。現代日本に横溢する、美術館と同じハリガミ主義。ここにはデザインがない。これでも、シロートがデザインしたものとはいえるのだが、それもまたデザインと考えてよいのか。ならば、十貫坂教会の説教の手描きの看板のほうが上等だ。PCから出力された味気ない書類のような張り紙。恥ずかしい。こんなみっともないものが、白昼堂々高層ビルのど真ん中に張り出してある。ひとは見た目を気にしなかったらおしまいである。企業のデザインポリシーやブランディングとはそういうものだろう。そこらの場末のラーメン屋や居酒屋じゃないんだから。まさか中野だから許されると思っているのだろうか。ドコモや美術館は「無粋」という言葉を知らないのだろうか。

 

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1987年に大阪ミナミの戎橋のたもとにあった、クラシックな「キリン会館」をつぶして、「キリンプラザ大阪」のポストモダンなビルが建てられた。2008年に解体されたが、同じビルに入っている飲み屋の俗っぽい看板が入り口にあったり、周囲の飲食店の幟や看板にとりかこまれて場違いな景色になっていた。さすがのポストモダンも、大阪のミナミの繁華街の〈毒気〉には形無しだった。そんなことを思いだす。(ウィキペディアに写真が載っていた)

 

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『谷川俊太郎詩集』ポエム・ライブラリー/東京創元社/新書判/装幀:花森安治/1958年

 

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ジャケットのタイトルは平体2ぐらいの扁平な文字。写植だろうか。よく見るとあまり出来のよくないゴシック体。太さにばらつきがあるし、デザインも変だ。新聞社の扁平ゴシック活字ではないか。

 

変型をかけるのは好きじゃないが、この本のタイトルを見ていると、こういう扁平のゴシック体もわるくない。機械的に変型をかけるのではなく、もとから平べったい設計のゴシックがほしくなる。

 

タイトルと、絵と、社名の文字の位置のバランスが面白い。タイトルと絵のアキを絶妙と見る。これほど絵をさげられるだろうか。この〈アキ〉に自由さを感じる。絵は魚と葉か。表1と背に欧文で手描きのPoem Library。この手描きの自然さがモダン。

 

メインタイトル=約24ポ 字間をあけてある=約4ポ シリーズタイトル=9ポ(中黒の前後がつめてある) 社名=8.5ポと9ポ(全角アキ)

 

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サイズは新書判で、並製で表紙にチリがあってフランス装風。前後にクリーム色の見返しがついている。表紙は内側に折りこまれて、見返しを包んでいる。洒落た新書判だ。別丁扉は水彩画用のような用紙。横方向に紙の目がある。こちらの書名と社名は明朝体。横組で高い位置にあり、茶色で刷られている。この位置がなんともスマート。

 

タイトル=10.5ポ シリーズタイトル=8ポ 社名=8ポと8.5ポ 本文=9ポ/行送り17/岩田明朝体
解説=8ポ/行送り15/21字詰め/行送り15/2段組

 

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奥付。この文字グループの並べ方。花森はうまい。

 

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解説が長谷川四郎である。「谷川俊太郎の子供の時を私は知っている」で始まる。ひとつのパラグラフが読点だけでつながれている文章。
〈すでに予感されることだが、彼は愛の混沌の中から歌を編み出すけれど、それは彼が愛を歌うのではなく、愛につかまれ、愛に歌われる自分を歌うのである、彼は本能的に、愛を歌うことの危険を感じているらしく思われる、彼自身がここでは物になっている、今まで世界を歌っていた詩人は、こんどは歌われている自分を見出す、彼は物かげにかくれて、その自分をながめている、すこしばかりのおどろきを以て、というのは、眼にみえないエロスの神がどんな姿をしているかという好奇心の方が大きいからである、だから、ここでは自分自身を歌いながら、彼はやはり不在だ、私はここにおなじみの詩人の態度をみて、微笑するのだけれど、ひとは或はそこに新しい衣をつけたリリクが、舞台の上で所作するのをみるかもしれない、糸をあやつっているのは、彼だかエロスだか、それはわからない、黒坊がたちはたらいて、主役はいろんな仮面をつける。〉

 

今日の写真
阿佐ヶ谷美術専門学校の近くの路上にて。すこしエッチな絵。道路工事の指示の跡か。

 

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今日の一曲
You Make Me Feel Bland New/The Stylistics